へいこうな毎日!

理系学生がつづる日々のこと。化学や教育、ゲーム音楽に興味あり

新生活始まってまとめた日記的なのその壱 【けんきゅう!!】

このブログで何を書こうかすら忘れていましたが、別のところで日記的な投稿をしていたので
この場でもほぼ同じものを投稿してみます。

というわけで、ちょっとぼんやりとした理系の自分をゆるーくお伝え。




今週の月曜日にラボが始まり、今日で初めての休日。そしておそらくここに住んでから二週間がたちました。

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適しているか、越えるのか (2)

いまやっているアルバイトは短期間なので、そろそろ終わりが見えてきました。
前回に引き続き、自分の欠点や苦手とするところを報告していきます。

気づいたこと2 手作業ができない

工場はもちろん、どんな職場でもある程度の手作業がつきもの。POPを作って貼る・商品を袋に詰めるなどなど、わくわくさんの力を借りなくてもできる(と思われる)作業はあるもので。

これができない。小さい頃からそうだったんだけど、手順がまったく思いつかない。一連のプロセスが終わった段階で位置がずれていることに気づいたりなんて当たり前。
もう少しこの「苦手」に向き合うと、どうも決められた手順に沿って「正確に」または「効率的に」作業することへが「苦手」なのではないかと思い始めました。折り紙やカッターを使った工作、すべてに手順があります。またそれらをある程度の精度で行わないと、結果として作ったものが機能しなくなる。そしてアルバイトとは労働、つまりはそれだけタラタラやっていたのでは時間がもったいない。これらが合わさった時、そもそも手順が浮かばない私にとっては二歩先を求められている、そう思ってしまう。

手作業ができないと思ってるから無理なんでしょう?と言われるし自分にも言い聞かせているんだけど、どうすればいいのやら。



アルバイトで何かを学ぶとしたら、自分を学ぶのだと思う。三つのアルバイトを「こなして」思うことは、なんとか力とかそういうのじゃなくて、その環境毎の自分とはなんなのか・そのことから何を気づくかということで。


アルバイトで学べるか?イエス。アルバイトは学びを期待するべきか?これはノー。労働しながら学ぶなんて考えちゃいけない。学びの瞬間に気づくことはあっても、それがアルバイトの動機にはならない。

適しているか、越えるのか (1)

現在大学四年なんですが、この一年で数種類のバイトを経験しました。
これまでは塾講師をやっていたのですが、工場勤務と家電量販店の販売員という新たな経歴が加わりました。

どこの集団に属しても言えてしまうことなのが「合っているのかいないのか」ということです。
でもこれは非常にあいまい。人間関係なのか、作業内容なのか・・・何があっているのかどうかは挙げればきりがないです。
都合三種類のバイトを経験して、「バイトで学びました」的なことはどうも笑いを禁じ得ないこともありますが、
それでも自分としては発見がありました。
今回からのエントリーではバイトを通じて自分が発見したこと、そしてそれにどう向き合うかみたいなことを書きます。
もしバイトこれからだよっとかバイト何しよ、って思う人が読んでも少しは助力になる・・・かな??


気づいたことその一  数えられない

これは講師では問題にならなかったというか、むしろ新たな二種類で発見した自分の欠点です。
たとえば工場では生産したものをいくつかの種類と数でまとめることがしばしばあります。そのまま納品することもあり、
種類と数を正しくセットすることが求められます。多くの人がサクサクその作業をこなす一方、自分はいつまでもノロノロ
していてしまいには間違える事ばかり。アドバイスをいただくもそれが実行できず・・・。
もちろん慣れれば早くなるのは間違いないのですが、慣れるまでの速度も遅いのだろうと思わざるを得ませんでした。
自分は数を数えるのが苦手なんだと初めて気づきました。頭のなかで意味合いの異なる数字が羅列するとわけがわからなくなるみたいです。
「AとBとCの三種類をそれぞれ27,8,19個用意する」という目標があり、三種類の数を数えているとだんだん頭が混乱してきます。
いま数えている数字と目標の数字、目標の数字には種類のことなる意味合いが三個ある状態、と捉えているようで、何が何の数字か
わからなくなる。
対策もいまのところ思い浮かばず、単に自分の苦手はここなんだと気づいた喜びはあるものの、その作業に向き合うときは
窮屈な思いと申し訳なさでいっぱいでした。


その二は次回更新の時に。内容は「図画工作ができない」です。

夕飯が香る路地裏から

 小さい頃、親に連れられていろいろな町を歩いた。地元の県よりも東京の街の方が良く知っていたのもこれが影響している。
親、というか母親なのだけれど、歩くのが好きで、気づいたら夜になっていてることはいつものことだった。大抵、そういう時は夕飯時で、住宅街を抜けるときはおいしそうな香りと台所からの音が聞こえた。どこかさみしいような気持ちを抱きながら母の背中を追ってひたすら歩く。いまにしてみれば、この時からうすうす考えていたんだと思う。


 歩くということは目的地がある。夕飯の香りと台所の音を体で感じ、ついには自分の家に着く。疲れた足と、母が用意する夕飯。
さっきまで感じていたさみしさはどこかへ行ってしまう。
 


  もし、これが一人なら?


 あれから10年以上が過ぎた。時々感じるさみしさの正体はまだわからない。今日もどこかで夕飯が作られ、それをかいくぐって歩いていく人がいる。孤独に幸あれ。

新ルール 「ツイッターはPC限定」で何が変わったか

どうもお久しぶりです。

心を新たにブログ再開。今回は昨日から始めた自分ルール「ツイッターはPC限定」について。


かの有名なツイッター社の社長がSNS断ち・・・に触発されたかもしれないが、ともかく、
携帯からのツイッターログインを規制してみた。

理由は簡単で、いま自分には時間が必要だったから。
用事が多いというよりは、読みたい本や専門を深める学習など、自分の時間があまりないことに
きづいたから。


やってみてどうだったか。
ツイッターやSNSは受動的だったことを知ることができた。
しかし、ツイッターは「気軽につぶやける」サービスで、誰しもが能動的に発信者になれるものだ。
おもいかえせば、発信者たる自分よりも、いわゆるROM専としての自分が多かった気がする。
規制して一番に感じたのが、「何かが始まることを待っている時間」が発生したことだ。

「何かが目に飛び込んでこないか」を待っている余白のような時間。これはツイッターのTLをじっと眺めていた時には常に生じいた「だれかがなにかをつぶやく(それを見る)」ことを欲しているのだと考えた。

当初の予定通り、読者などで「自分の時間」に当てているものの、心のどこかでは、受動的で目まぐるしく情報が飛び込んでくるあのTLを眺めたくてうずうずしているように感じる。


ただ、いまの時間の使い方はかなり有意義だ。手放すのはもったいない。。。