へいこうな毎日!

理系学生がつづる日々のこと。化学や教育、ゲーム音楽に興味あり

しゃべるのが好きなので

以前にも何度か言及したtwicasを始めました。

http://twitcasting.tv/sntaito/show/


右の「関連コンテンツ」にtwicasで投稿したラジオをまとめるブログのリンクも貼りました。

今後ともごひいきに。


このブログを始め、いろいろな媒体を併用していきたいと考えています

最近の日常

日常でも書きますか。
どうにも自分は浮き沈みが激しいらしい。スケジュール的にも、忙しい時とそうでないときが交互に現れる。

最近は研究に関わる大きな実験を行ったが、「大きい」のは私の認識で、そこまで難しいというわけでは無い。実験を終えるのに一週間以上かかり、その時点で風邪を引いた。


風邪を引いた週の予定はほぼキャンセルした。外せないミーティングがあり、その後違う団体の飲み会に行けるかもと思ったが、ミーティングは重要の極みであり結局飲み会には行けなかった。

親から、来年からの金銭的な事情を間接的にしか指摘されず、落ち着かない。はっきり言ってもらえればどういう状況なのか、その対応策もクリアになるかなと思うけれど。基盤がぐらついたのか、今日はなんだか不安がじんわりこみあげてきた。

ツタヤに行って気晴らしになるようなCDを借り、積んでいた本を読んでる。最中に、本を投げて暴れたいような衝動に駆られるも、それは得も知れぬ焦燥感なんだと言い聞かせる。


小さい頃から、ここぞというときに体調を壊し、思いもしないときに心がしぼんでいった。一回一回が大きいから、慣れることもできず。


今日は前に進めません。でも前に進むために来年はあの地へ行きます。
来年、得たいこと以上のことを得られなければ、この道をあきらめる(ことができるのか?)


・・・

Re:先日はどうも

久しぶりに会えて楽しかったです。あれから数か月たちました、いかがお過ごしでしょうか。
本当はメールで伝えたかったのですが、なんとなくブログにしました。あなたは見てないこのブログに。
理由は・・・また後程。

あれから、あなたが繰り返し言っていたことを思い出します。

「周りから頼れるとか言われる・・・」
「でも、そんなんじゃない」

私はあなたと中学を共にしました。たしかに、あのころとは少し違っています。変化の経緯は、おそらくあのことでしょう。
でも、これだけは知ってほしい。周りから褒められるのには理由がある。その理由には少なくとも、素直な評価があるでしょう。
対外的な評価と自己評価が違うことは、往々にしてあることです。仕方ないことです。

少し違って見えた、というのは、元気g無いように見えたから。でも、話を聞くうちになんとなく、元気がないのではなく一定の安定を得た落ち着きなのだと思いました。
是非、幸せに過ごしてほしい。

「でも、そんなんじゃない」

まだ引っかかります。もしかして、対外的な評価から離れたいのではないでしょうか。だとしたら、その点が違って見えたのかもしれません。

「頑張る環境がなければ堕落する」

そうだと思います。
そういえば、私もあなたも期限が迫っています。私はというと、時々大学に行かず、ただ寝ている日を過ごすことがあります。
堕落です、仕方ありません。
誰しもがそうかもしれません。成功のエッセンスをつかみたい人は、つかむ気にすらなれない人を知りません。

「でも、そんなんじゃない」

そうです。でも、そうじゃない。私たちは中学の頃、あのクラスをまとめようと少し頑張った。今は、少しだけ行ったり来たりしてる。お互い進路もある。もしかしたら、堕落する環境かもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。


頑張れとかいう言葉を送りたいわけでも、あなたを叱りたいわけでもない。
これは全部自分を振り返りたかったから。だから、書いた。

もう、会えないかもなと思った。住む世界が違うのかなと、思ったりもした。

「でも、そんなんじゃない」

仕方ない。そうかもしれない。でも、まだだと思う。あなたが思い描く妥協した世界は、まだだと思う。
その世界には、あなたではなく、ただの役割しか見えません。

もしかして、対外的な評価から離れようとしたのですか。もしかして、あのころから。



P.S.もしそうなら、私は過去に戻ってでもそいつを殴る。
PP.S. そういえば、このブログには一貫性なんてない。そもそも、一貫性だとかいう調和のとれた単語は扱いずらい

ノーベル賞と、ワタシ達を取り巻く科学のそこんとこ

2012年10月8日、京都大学の山中教授がノーベル生理学・医学賞を受賞した。受賞理由は「様々な細胞に成長できる能力を持つiPS細胞の作製」である。

今回のエントリーでは、ノーベル賞の話はしない。もちろん、iPS細胞とは、という話もしなければ、私が専門とする化学につなげることもしない。では、何を書くのか。
それは、科学の世界とワタシ達市民、この二つの間で何が起きているかについて書く。主に、科学側がワタシ達に対してどのような行動をしているのか、ノーベル賞で少しだけ科学に目がいくこの時に、改めて。

本題に入る前に、日本人及び日本に関係が深い人たちのノーベル賞とその由来、受賞者の氏名を年代順に列挙していく。さらりと目を通してみてください。

1949
 湯川秀樹  物理学賞     中間子の存在の予想
1965 
 朝永振一郎 物理学賞     量子電気力学分野での基礎的研究
1968   
 川端康成  文学賞      『伊豆の踊子』『雪国』など、日本人の心情の本質を描いた、常に繊細な表現による叙述の卓越さに対して
1973 
 江崎玲於奈(れおな) 物理学賞   半導体におけるトンネル効果の実験的発見
1974
 佐藤栄作  平和賞         非核三原則の提唱
1981
 福井謙一  化学賞         化学反応過程の理論的研究
1986
 李遠哲   化学賞         化学反応の素過程についての研究
1987
 チャールズ・ペダーセン  化学賞  高選択的に構造特異的な相互作用をする分子(クラウン化合物)の開発と応用 
 利根川進  生理学・医学賞     多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明
1994 
 大江健三郎  文学賞        『万延元年のフットボール』など、詩的な言語を用いて現実と神話の混交する世界を創造し、窮地にある現代人の姿を、見る者を当惑させるような絵図に描いた功績に対して
2000
 白川英樹  化学賞    導電性高分子の発見と発展
2001 
 野依良治  化学賞    キラル触媒による不斉反応の研究
2002 
 田中耕一  化学賞    生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発
 小柴昌俊  物理学賞   天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献
2008 
 小林誠   物理学賞   小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献
 益川敏英  物理学賞   同上
 下村脩   化学賞    緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見と生命科学への貢献
2010
 鈴木章   化学賞    クロスカップリングの開発
 根岸英一  化学賞    同上
2012
 山中伸弥  生理学・医学賞 様々な細胞に成長できる能力を持つiPS細胞の作製


便宜上、平和賞や文学賞も入れたが、これらに目を通して、なにを思っただろうか。



今回の受賞に対して、科学関連の人でとりわけよくある反応があり、それは以下のような発言にまとめられる。


「今回の受賞で、応用に力を入れるのはもちろんだが、そういった応用を支える基礎研究に光を」


iPS細胞は、まさにこの基礎研究で成功した例であるが、上記の発言はどのようなことを言っているのか。それは、基礎研究に金を出してくれ、という要約に尽きる。研究にまつわるお金は、国の予算を割り振られることで手に入れられる。どの研究にどれだけお金を出すかというのは、その時の政治的方針にゆだねられることになる。つまり、今後「応用分野に力を入れる」とすれば、基礎研究に対してはあまりお金が回らくなる。

しかし、なぜ敢えて「基礎研究に光を」と訴えるのか。それは、基礎研究は非常に「削られ」やすいたmである。応用分野に比べ基礎研究は長期間の研究を必要とするので、「成果」がいつになるかわからない。さらに言えば、もし基礎研究にお金を費やし、長期間(大体10~20年、もっと・・・)かけても成功するとは言えない。そのため、応用分野に対して予算が減るという危惧が付きまとう。

たとえば民間企業であれば、おおよそ短期間の成果に価値を置くだろう。その感覚では基礎研究は行えないに等しい。さて、民間、つまりワタシ達に対して、科学はある願望を抱いている。それは・・・。


サイエンスカフェというのを聞いたことがあるだろうか。イギリスから始まったこの概念は、市民と研究界隈を近づけようという理想の下、より気軽に交流の場を設けようということで始まったものである。市民の研究に対する関心が高まれば、当然基礎研究についても期待を寄せることになり、(市民が行う)政治もそちらに価値を置く、という考えも含まれている、と考えている。

そう、科学の立場からは、ワタシ達に研究の魅力を知ってもらいたい、関心を抱いてほしいのである。「サイエンスコミュニケーション」という語も生まれ、大学院でそれを専門に学ぶことができるところもある。それほど、科学はワタシ達との交流を欲しているのである。

ワタシ達にとって、ノーベル賞は「なんだかすごい」で終わることがほとんどだと思う。そうした市民にとって、科学というのは未だわけがわからず、ただお堅いイメージが定着しているのではないか。いくら身近にある、知っていれば危険がわかる、といっても、である。


科学が抱く願望、理解と関心、そして交流。ワタシ達が抱く科学への壁・・・


次回のエントリーでは、実際のサイエンスカフェやサイエンスコミュニケーションについて、実際どのような物であるかを触れる。科学を初めて教わる学校教育でのサイエンスについても書いてきたい。そして、ワタシ達がどのような行動をしていくのか、べきなのか・・・。それについても、思うところを。